いっぽいっぽ日記

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日々シンプルに心地よく過ごすために、やってみたこと、思ったこと。

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記憶の使い道

先日、ふと 去年亡くなった大叔父のことを思い出しました。
「思い出す」ということは、長らく「忘れていた」ということであり、そのことに少し切なくなりますが…





私は、5W1Hのような、「情報」を覚えるのがとっても苦手で、というのはその情報に私の心が動かされてないからなのかな~なんて考えています。
だから、日本史の成績がめちゃくちゃに悪かったです。「年表」と「出来事」がどうしても覚えられない。
また、自分の体験した思い出も、まったく覚えていなかったりします。こちらも私の感受性の問題だと思うのですが、「誰と」「いつどこで」「どんなことをした」か、ほとんど覚えていないのです。

私が思い出すことといえばとりとめのないことで、5W1Hがはっきりしないことばかり。
しばらく前の夜中に思い出したのも、空気や風景や音やにおい
今の時期であれば、小学校のころ、七夕まつりという行事で、体育館の天井に届いて余りある大きな竹に、全校生徒(といっても100人くらい)で飾り付けをしてそれを立てるときの笹の音とか体育館に響く声。
それつながりで、6年生の時、卒業式前のお別れ会で、「1年生が6年生に行う出し物」で、「肩たたきしながら歌う」というものがあり、掃除の班(1~6年生の縦割り班)の1年生が泣きながら私の肩をたたいてくれたこと(私も泣いていた)。

そういったことが突然思い出されることはあるけれども、生活や、誰かとの付き合いに必要な「活用するべき」情報や記憶が全く思い出せないのは困ったものである。
私の記憶は、一体どこへ行ってしまったのか。
それとも、記憶はあるが、思い出すメカニズムができていないのか。
私は私の記憶があまりにも「活用されない」ことにたびたび怒ったり悲しくなったりします。



そんな毎日の中で、ふとした瞬間に大叔父のことを思い出し、「これが私の記憶の使い道」なのだと感じました。
そしてとても、安心した。
私の記憶の使い道はこれなのだ。

「人は死ぬのが怖いのではない、忘れられてしまうのが怖いのだ」
「会えなくなってもその人は誰かの記憶の中で生き続ける、死ぬということは生き続けることなのだ」 という内容のことをどこかで見たことがあるけれど、もしそうなら、どうぞ、おじちゃん、私の記憶を使って生き続けてください、と思う。

もう名前も覚えていないけれど、あのお別れ会の日私の肩をたたいてくれた1年生の男の子と女の子。
私の知らないところで、どんな暮らしをしているかはわからない。
でも私が思い出したから、この二人も間違いなく「生きている」。
私の実家はなくなったけれど、私がふと思い出すから、その家も「生きている」。



私の記憶の使い道は、いろんな名前もない出来事を「生かすこと」。
だから、きっと私は、少しばかり、生活に必要な記憶力が弱いのだ!(笑)
そう思って一人ニヤニヤしてしまいました。



ちなみに、その「大叔父を思い出したきっかけ」は、「紙でゴミ箱を折ること」。
会社の個人用ゴミ箱を使わない代わりに、引出しの空き缶にゴミをためていたのですが、共用ゴミ箱に捨てに行くのがちょっと面倒だったので、そうか紙のゴミ箱を作ってそこにゴミをためれば捨てに行くのも簡単だ、とひらめいて(遅すぎる)、紙でゴミ箱を折っている時でした。
大叔父は手先が器用で、ゴミ箱もチラシできっちりと折って、ストックしていましたし、グリコの空き箱で、財布を作っていたこともありました。
その財布をもらって、におい玉を入れていたのを思い出しました。

そのほかにも大叔父は色々なものを自分で作っていたと思うのですが、私はそういうのの価値がわからない子だったので、作り方を教わることもなく。
今にして思えば、なぜもっといろいろ教わらなかったのかと後悔しています。

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