いっぽいっぽ日記

いっぽいっぽ日記

日々シンプルに心地よく過ごすために、やってみたこと、思ったこと。

「何を言っても、周りに許される人」と言われた

会社の同僚と飲んでいるとき、「やまたろうさんは、何を言っても許される雰囲気だからいいよね」と言われた。
その人(仮にAさん)いわく、「私とやまたろうさんが同じことを発言しても、印象が違う」ということらしい。
そのとき私はけっこうなうっぷんがたまっていて、珍しくぐじゃぐじゃと言っても仕方のない愚痴をこぼしていたんだけど、例え私が悪口を言っても、「そうだよね」と受け入れられるらしい。
Aさんの発する「あの人ムカつく」と、私の発する「あの人ムカつく」は、同じ言葉なのに受けての印象が全く違うそうだ(そんな場面は現実にはもちろんないけど)

まったく考えたことのないことだったのでとても衝撃を受けた。
Aさんいわく私は「得をする」人間だということだった。

そうか私は得をしているのか~と思った。
でも、ほんとにそうなのかな。
そうなのかな。

それって、ちょっと寂しいことなんじゃないかな。
確かに、私は反論されることが少ない。
でもそれは、私が当たり障りのないことを言っている薄っぺらい人間だからじゃないのかな。
もしくは、反論するほど親しみを感じないということなんじゃないのかな。
私はひとといろんな話をして、時には意見の違いに踏み込んで、そうやって関係を構築していくのが理想だ。
だから、私が「何を言っても許されている」のならば、そこに心の交流がないってことではないのかな。

あと、私自身が反論?相手の感情を引き出す?ことを抑圧しているのではないだろうか。
この可能性は怖い。
いわゆるマウンティングというやつかもしれない。
そうだったら最悪だ。私に自覚がないので。

などと、ちょっと考えてみたんだけど、私は考えることが苦手なので、「まあいっか」って結局今は思っている。
ここで深く自分と向き合えないのが、いかにも私らしい。
きっと、この出来事も時がたつとすぐに忘れてしまう。
だけど、だけど本当は忘れたくないんだ。
考えることが苦手な私だけど、私のことを私が知らないと、私にも好きな人にも迷惑がかかるから。
だから、いま、とりあえず思ったままを記録する。

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東京と、磯丸の5月。仕事漬けな6月。

ずいぶん久しぶりですブログ。

この記事で、書くリハビリさせていただきますね。

磯丸水産

いそまるすいさん。
私の中で大ブームの巻き起こった5月である。
なぜそこまで行きたくなるのか…自分でも不思議だ。
思うに、磯丸水産=東京の、ブログ仲間御用達 というすごい偏ったイメージが出来上がっているからだ。
私の好きなブロガーさんたちが、やたら磯丸水産でウェーイしてたせいだ。

当時、福岡に、九州に、磯丸水産は、なかった。
それが余計に、東京と、私の距離を強調して、だから私は磯丸水産にこだわりだしてしまったのだ。

ところがどうだ。
調べてみたら、2017年7月に、九州では1号店となる「中洲川端店」ができているではないか。

磯丸水産 中洲川端店
〒812-0026 福岡県福岡市博多区上川端町11-277
2,500円(平均)800円(ランチ平均)
r.gnavi.co.jp

私はいてもたってもいられず、職場の人を誘って、初磯丸を体験した。

もう私は感激で泣きそうだった、磯丸水産なのに←失礼
憧れで、会いたい人たちのやっていることを、私もできたんだ!という、浅ーいミーハー心が達成されたのである。
それにしても磯丸水産は安くておいしかった。
九州は食べ物が安くておいしい。
でもそれでも、磯丸水産は利用しやすさと、網焼きの珍しさと、価格と、蟹味噌+ポテト、三ケ日ミカンサワーで間違いなく勝負できると思った(おおげさ)。
初めて行った日は、私のこの冬の介護体験などを聞いていただき、本当に、「復活だ」と思えた日だった。
生涯忘れない。

中洲川端店がオープンして1年たたないうちに、しかもすぐそばに、2号店までできてしまった。

磯丸水産 中洲国体道路店
〒810-0801 福岡県福岡市博多区中洲2-3-8 中洲ガーデンテラス1F
2,200円(平均)800円(ランチ平均)
r.gnavi.co.jp

6月最後の金曜日、仕事でイライラマックスだった私は、またしても同僚を誘って、2号店へ突入したのであった。
(というのは半分うそで、最初行こうと思っていた店が予約でいっぱいだったのだ。2号君として使ってごめんね、磯丸。2号店だけに。うるさい)
なんと、1号店が1周年を迎えたため、最初のビールが10円だった。
蟹味噌も399円だったし、イカの丸焼きも安かった。すごい。
この日、はじめてえびせんを食べたけど、蟹味噌につけて美味しかった。
イカも蟹味噌につけた。とりあえず、蟹味噌につけたら、みんな、美味しいって言う。
あと、杏仁豆腐がクリーミーでおいしかった。



東京

5月末、仕事で東京に行った。
たぶん、10年ぶりの東京だ。
一人で遠方に出張するのは初めてで、しかも東京なんて、絶対迷う!と思っていたらもちろん迷った。
羽田から京急?にのって、テンパって、品川と新橋を間違えて一度降りるし。
ホームからの出口が多すぎていろんな窓口にお世話になった。
久しぶりに履いたヒールで靴ずれしてべろんべろんに皮がむけるし、爪は全指が死んでた。今、私の足の爪は血で真っ黒です。
二度とヒールで東京に行かない。

それで、仕事もしたんだけど、それよりずっと会いたかったブロガーさんたちが都合つけて会ってくれたことがすごくうれしかった。
田舎から一人で来てても、それで初めて会ったにもかかわらず、安心を感じた。
これってすごいことだ。
人付き合いの苦手な私が、こんなことができるようになるなんて。
そして東京でも、磯丸水産に行った。
磯丸にはお世話になりっぱなしである。



磯丸1回目は、こんつまさん(id:goldblack)、はちさん(id:hachi-log)、りっこさん(id:yururiururi)にお世話になりました。
磯丸2回目は、ねこのこさん(id:nekonokoneko)にお世話になりました。

もうほんとに、この東京での磯丸水産も、一生忘れない。
わたし、磯丸水産に足向けて寝られない。
全然おしゃれとは程遠くて、微妙に古いBGMがかかっていて、磯臭くて、でもすっごくキラキラした思い出の地、磯丸水産。実にわたしらしい、わたしにピッタリな思い出。

仕事

今回東京に出張が入ったのは、新しい仕事を引き継いだからだ。
新しい仕事というのは神経を削るものだと思いだした。
勝手がわからない、前任者もいない、相手の会社も初めての人。
そのほかもろもろ色々ストレスがたまりまくった、そんな仕事に飲み込まれた6月だった。
「わからない」って苦しいことだと思い出した。
来年入ってくる新人さんは、たぶん私がメンターを務めることになる、と最近知った。
その前に、この気分を味わってよかったかもしれない。
こんな気分を絶対に味あわせたくない。

それに、私は、やりたくないことはとことん拒絶するわかりやすい脳みそをしていることも再確認。
仕事というか、相手ですね。合わない相手との仕事は破滅的に効率が落ちます。
それと、好きでやっている仕事ではないので、仕事に対して真摯でないこともわかった。
いやもちろん目の前のお客様とか作業自体はまじめに考えるしベストを尽くす。でもそれ以上の、例えばすごく時間を費やしたり没頭したりさらなる展開を切り開いたりとかそんな次元には心をもってけないなと。 よりよくするのを「考える」ことはできるけど、「神経と身を削る」のは無理だ。
会社のためを求められるとさっと引いてしまう。
これも、ただぬるま湯につかっているだけじゃわからなかった感情。
内面を見つめるきっかけになった。

あとは、仕事は関係ないけど、人生で初Polcaやりました。
何かを純粋な情熱でやっていっている人、すごい。
純粋に、その方の作っている商品ができたら、私も欲しいなと思ったので、これからも頑張っていただきたいです。

うんうん、こんな感じ。
書くこともここまでくると慣れました。
読むのに付き合ってくれたみなさん、ありがとうございます。

また、なるべく近いうちにブログを更新できたら、とは思っております。夏はやりたいことたくさん。どうなることやら。

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4月はリスタート。新しい出会いで満たされて

春になったら新しくスタートする。
そう決めて、まずは色々な人に会おうと決めた。

2017年から2018年にかけての冬に、自分の体と心が不調になってしまったが、気候も良くなり、問題とも距離を取っていることで少しづつ回復してきた。
色々なことがなくなったり壊れたりしたけど、「私はいつまでもここにいない、また新しく始めよう」と思った。
今までの人間関係から外に出て、色々な人に会おうと決めた。とにかく今の状況が嫌で仕方がなかったのだと思う。
「新しい関係」「違う世界」を追い求めていた。
そういうものと出会うことで、違う自分になれると思っていたのかもしれない。


会いたかった人に会う

ブロガーのにゃんすさん(id:nyansu-nyan)と、4月の初めにお会いした。
初めてブログでつながった人と会う、私にとっては最大級に緊張すること。初めてはにゃんすさんと、ずいぶん前から(勝手に)決めていた。
今年、桜が咲いたら連絡すると決めていて、3月末の福岡の桜の開花に合わせて思い切ってお誘いした。
私のこんなズタボロの時期に申し訳ないと思いつつ、会いたい思いを優先させてもらった。
当日は、ひたすら神社やお寺や花を見て歩いた。
結果めちゃくちゃ歩かせることとなってしまい、申し訳なかった。しかしにゃんすさんはびくともしていないように見えた。私は腰が痛くなって途中休ませていただいた。
私は多分とても緊張していてうまく話せなかったけど、にゃんすさんとだと不思議と、沈黙しても大丈夫かもしれないと感じて、おそらくにゃんすさんはどんな時でもにゃんすさんを貫くんだろうなって、頼もしく思った。そういう雰囲気を勝手に感じたので、私も私を装わずいれたんだと思う。
誰かと会うのにこんなにワクワクしたのは本当に久しぶりだった。
ボロボロなわたしを見てくれてありがとう。次会うときは、もっと腰を据えていろんなお話をしてみたいと思った。

行きたかった講演会に行く

twitterをフォローしているF太さん(F太 (@fta7) | Twitter)。
かわいい猫のアイコンで、日々刺激になる、考えさせられる、そして「わたしも頑張ろう」とポジティブになれるつぶやきが好きだ。
タイミングよく、福岡で講演が予定されてるという情報を知った。
しかも、今回は、発達障害をエクセルで克服されているという小鳥遊さんとのセミナーだ。
私自身は発達障害ではないが、不注意型に近い傾向にずっと悩んでいたため、これは、私のための企画かもしれない(そんなことない)と思って参加を決めた。
普段都内でのイベントが多く、地方民にとってはなかなかチャンスがないので、こうして地方でも開催していただけるのはとてもありがたい。
当日は、予想よりだいぶ多くの参加者がいて、びっくりした。
こんなにお悩み仲間(?)が!!
内容もとてもわかりやすく、小鳥遊さんは気さくで、F太さんは想像以上にお若くて、お話もわかりやすく、感動した。
私もお二人のように、とまではいかないまでも、きちんとわかりやすく伝える技術が欲しいと思った。
書籍を購入し、サインを…と機会を伺ったが、休憩時間は常に行列ができていたので、購入のみで、お話するのは遠慮した。
F太さんと話している方々をぼおっと眺めていたが、皆さんとても嬉しそうで、ああ素敵なお仕事だなとほわんとした。

偶然の出会い・時間の共有を楽しむ

弊社でも新卒採用が始まり、偶然、そのお手伝いをすることになった。
最初は、新卒の方の受付と、面接開始までの待ち時間での話し相手を務めるとのことだった。
それが、気づけば内定者フォローや入社にあたっての面談まですることになっていた。
普段接することの無い新卒者の方、それにかかわる役職の方と意見を交換する機会ができた。

以前の私であれば、この手の人と関わるお仕事は冗談抜きで「死んでも嫌」な部類に入っていた。
自分がどう思われるか、変な行いをしてしまわないか心配で心配で尋常じゃないくらい緊張していたからだ。
でも、今の私は、もう「自分がどう思われるか」なんて、言い方は悪いがどうでもいいと思うようになっていた。
それより、いつもと違う状況をいかに楽しむか、立場の違うもの同士をいかに馴染ませるか、その場が終わった後の手応えを感じる結果を残すことができるのか、という、完全に「お仕事モード」優勢で、そんな機会が与えられたことに感謝すらした。

「新しい出会い」なんて、私一人の力ではそんなに得られるものではないのだから、仕事を通じてそんな機会が得られたことを喜べるようになっていた。
学生さんとの会話は新鮮で、彼らの意見にハッとすることもあって、とても刺激になった。
また、初めてこのような場に出て、それを初めて目にしたであろう、上司の方々からの評価は意外に好意的だった。最近は仕事でマンネリしていたので、久々に自分への評価を聞く機会に恵まれ、モチベーションもアップした。

さまざまな「出会い」を通して受けた刺激をどうするか


様々な「出会い」を経験して、私にとってとても大きな学びがあった。
・偶然も必然の出会いも楽しむことができた
・「会いたい」という気持ちに従うと満足度が高い
・会いたい人との時間で、ホッとしたり、頑張ろうと思える
・人生に取捨選択は必要だけど、出会いは偶然も受け入れると刺激がありいい影響が出る
・自分で行くことを決めたセミナーは元気が出る
・ビジネスにおいては、対話スキルの鍛錬になる
・複数人でのトークで、自分の得意とするポジションに気づく

いつもなら「あっという間」の1か月。でも出会いの多いこの4月は、1か月が長かった。 変わり映えのしない毎日だとあっという間に感じるが、新しい人との出会いはすごく刺激になったのだと思う。
新しい出逢いは、手っ取り早い刺激だ。
セミナーにはまってしまう気持ちがわかる、そういう人たちは、いつもと違う相手に会いに行くことで得られる「刺激」の虜になってしまうのではないかと思う。

ただ、そうやっていろんな人との出会いを通して受けた刺激は、私に何か劇的な変化をもたらしたかといえば、そうではない。
刺激は刺激だ。
その反応を受けて、その次にどんなアクションを起こすのか。その刺激を受けて、その次に自分の中で「なにかが起こる」のを待つのではなく「なにかを起こす」。
出逢いは「なにかを起こす」きっかけにはなるけれども、何かが勝手に変わることはない。
わかっちゃいるけど、実際に出会いを色々経験して見て、「ほんとにそうだなあ」と思う。
出逢いはとても貴重なものだけどそれ受けて自分がどうするかってのが、自分にとって本番。

冒頭で、「そういうものと出会うことで、違う自分になれると思っていた」なんて書いていたけど、出会ったからって、違う自分にはなれない。もちろん。

様々な、私と出会ってくれた方々に感謝し、次は私の動く番。
いただいた刺激を栄養にして、エネルギーを循環させる。
私の中に。
私と関わる人に。


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顔のコンプレックスについて

私は自分の顔に、大きなコンプレックスが3つある。

気になる順に、歯並び、反対咬合、そして前髪につむじ(生えグセ?)があること。

全て、まだ認めきれない、気にしてしまうところである。

でも近頃は、前ほど気にならなくなってきた。
コンプレックスの元が、前よりマシになってきたからではない。どのコンプレックス箇所も何も変わっていない。

コンプレックスを気にしている時間が無駄だと思えるようになってきたからだ。

まず3つの中で気になる第3位・前髪の生えグセ。
生きてきて何度か前髪を作るたびに、生えグセ+剛毛のせいで前髪が剣山のように、スネ夫のように、浮いてしまうことと戦ってきた。
近頃はあきらめて、前髪を作っていない。
私は前髪の左側につむじのような生えグセがあり、前髪を伸ばして、きつく結んでいても、その部分だけ細く短い毛が「もはぁ」ってなっている。
春のタンポポが芽吹くようだ。タンポポだとよかったのに。タンポポっていうより万能ねぎ。(万能ねぎって博多の品種なんですね。細ネギのことです)
40代に近づくにつれて、前髪無のひっつめ髪だとすごい老け顔に見えるので、前髪作成への誘惑がすごい。
ただ、剣山やスネ夫になるので、めちゃくちゃ悩んでいる。
長めに切って毎日地道にセットする、という手もあるが、今からどんどん暑い季節になる。いくら完璧にセットしても、夏の汗で一瞬でスネ夫だもんな。
前髪パーマを試したけれど、剛毛なのでパーマもすぐに取れていた。
残るは前髪デジパか…前髪にデジパなんてかけられるのか??
いい案をお持ちの方は教えてください。

気になる第2位は反対咬合。
上あごより下あごが出ている。
横顔が好きになれない。

気になる第1位は、歯並び。
私は上の歯並びが悪い。
同じ場所に2本生えていたりする、前後に。
もちろん両八重歯。

反対咬合と歯並びが気になって、小さいときから笑うことが苦手になった。
歯を見せると嫌われると思っていた。
思春期に、同級生の男子から、「歯、すごいね」と言われた。
その時から、微笑むことはできても、笑うことがあまりできなくなった。
たまに笑うときも、手を口に当てることがクセになってしまった。
その男の子は、本当に軽い気持ちで言ったんだと思う。
でも、アラフォーになった今でも、「歯、すごいね」といったその子の顔、声、場所をはっきりと覚えている。
実に根深い。

これらのコンプレックスについて、もう悩むのはやめにした。
前述のとおり、「時間の無駄だ」と感じるからだ。
ここで注意したいのは、「私にとっては、悩むことが時間の無駄だ」ということ。
コンプレックスというのは、本人にとってはとてもとても大きな問題で、安易に「そんなこと気にしない方がいいよ」なんて言えることじゃない。
ってことを、身にしみて感じている。
「悩むのやめよう」って思うまで、私自身何十年もかかっているし、「悩むのやめよう」って決めてすぐに100%平気になるわけじゃない。
だから、誰かの悩む気持ちを変えようとは思わない。

なんで時間の無駄だって思うかというと、最近何度も書いているように、人生のどん底を体験して、「コンプレックスに悩んでることが馬鹿らしく思えたから」だ。
コンプレックスの相対的な重さが変わった。大したことないと思えるようになった。
悩んでいる時間がもったいないと思うようになった。

私は今、色々な人と接してみたい。
でもコンプレックスに悩んでいると、一歩が踏み出せないのだ。 様々なことを経験した結果、今、私は「コンプレックスに悩む気持ち」<「人に会いたい、新しいことをやりたい気持ち」の状態になっている。
だから、自分の顔面について悩むことをやめようと思った。

最後の一押しは、単純に自分の気持ちが大幅に変わったからなのだが、今から10年以上前に、「コンプレックスを気にしているの、損かも」と感じたエピソードがある。
その当時、私は派遣社員として働いていた。
詳しい経緯は忘れてしまったが、偶然、派遣会社が私の経歴などをまとめた書類(おそらく客先にセールスする材料)を目にしたことがあった。
そこには、要約すると「見た目はパッとしませんが、笑顔に大変愛嬌があり笑うと親しみやすく云々」と書かれていたのだ。
当時は「見た目はパッとしないって、おい」と驚いただけだったけど、大事なのはその続きだったのだ。
どうやら私の笑顔は人を不快にさせることはないらしい。むしろ笑顔出してこ、ってことだったのだ。
ちなみにこの派遣会社は今はもうない。こういうことを書くような会社だからだろう、そしてそれを不用意に置きっぱなしにするような会社だからだろうと勝手に思っている。

また、大人になるにつれ、実はこのコンプレックスによって、「本当に嫌な体験をする」ことがなくなったことも、「気にするのは損で時間の無駄だ」と思いいたった大きな要因だ。
コンプレックスによって自分を辛くさせていたのは紛れもなく自分自身だ。
だいたい、見た目容姿のことでとやかくいう小さい人間なんて、私の周りにはもういないのだ。
私の選んだ人間関係には皆無だ。だとしたら本当に、悩むのは時間の無駄で、自分の周りにいる人をいっぱいの笑顔で少しでも幸せにする方がいいじゃないか。
そう思うと、旦那さんには感謝してもしきれない。若いころ、まだまだコンプレックスの塊で、それゆえに楽しいそぶりも笑顔も満足にできなかった私と付き合ってくれたのだ。私は今は彼を支えているという自負があるが、彼も私を人生をかけて支えてくれている。私が、狭いけれども、自分の抱えきれるだけの生活や人間関係を愛をもって続けることができるのは、まぎれもなく彼との関わりのおかげである。
彼が選んだ私が、自分の顔面の仕様でくよくよしてたんじゃ彼にも失礼ではないか。

さあ春が来た。
外に出よう。人生を楽しもう。
悩んでいる暇はない。

お気に入り。ダイソーのカレンダーは我が家で2役

今年の冬は、人生で一番大変だった。
年末年始は、一年で一番頑張りがいのある時期だと思うが、今年は何一つ、それらしい事をしなかった。

だが、やらないこと、やり残したことで、後々困ったことと言えば、意外とそんなに無い。
行事をこなさなくても人は生きていけるものなんだなぁ。またひとつ、ずぼら生活への罪悪感が減ってしまった…良いのか悪いのか。

その、数少ない(というか唯一の、かもしれない)困り事の一つは、カレンダーだ。

年末年始は所狭しと並んでいるカレンダーだが、1月も終わりになる頃には、かなり売り場の隅でひっそりとしている。
セールになっていたりして、一応手に取ってみるけど、わたしはカレンダーには個性を出して欲しくないので、そういうシンプルなものはなかなか残っていない。本屋さんには定番ものがあるけど、私のカレンダーにかけたい金額からはオーバーしてしまう。

去年ダイソーで、クリーム色にネイビーの印刷の、シンプルな、二ヶ月が一度に見られて、真ん中にミシン目があり、一ヶ月ごとに切り取ることができるというカレンダーを購入した。100円で、自分好みで、実用性もある満足度の高い買い物だった。
今年は、台所も居間も、それにしようと思って、1月末のダイソーに行ってみると、カレンダー売り場そのものがなかった。
カレンダーは、時期を逃すとこんなにも存在が消えるのねと、初めて実感した。

その後も100均に用があるとカレンダーを探した。
すると、天神のダイソーで、ようやく、いいなと思うカレンダーに出会った。

大きめのクラフト紙で日付が見やすく、前後の月も記載されている、イラストや写真が一切ないタイプ。

妥協しないでよかった。今年は時期を逃して大変だったが、またまた100円で、好みのカレンダーを買えて、とても嬉しい。

そして、今年のこのカレンダーは、我が家でもう一つの大事な役を果たしてくれている。

カレンダーの役目を終えて、ブックカバーへと生まれ変わる。

クラフト紙ならでは。
紀伊国屋の書店カバーがくたびれたら、こちらにかけかえる。月一回の、お楽しみ。

もし今年も紙の本を買い続けるなら、来年もこのダイソーのカレンダーにしようと思う。

同じことを役者を変えて繰り返すだけ

極端に狭い人間関係で生きている人がいる。
自分とは絶対に離れないだろうと思い込んでいるその人間関係の中で、
何十年たっても同じことを繰り返す。

その人間関係の中では、物事の考え方や価値観や関係性が変わらないので、
一見別の出来事が起こったように見えても、結局は過去の配役を変えて同じ問題を作り出しているように見える。

また、その人間関係の中に「異物」が入り込むのを極端に嫌う。
自分が隅々まで把握していて手足のように動かせると思っている将棋盤の上に、チェスのコマが置かれようとするのを必死に排除しようとする。ここには将棋以外のルールは必要ないのよ、一般的には(ここでいう一般的に、も、その狭い世界で語られているものだ)そういうものだから、何かを足す必要はないの。また何かが抜ける必要もないの。このままがいちばんうまくいくのよ。って。

いつまでもいつまでも。
同じキャストを使って、その時々で悪役を立てて、常に不安と不満のドラマを作っている、そしてドラマを作っている本人こそ本気で「なぜこの世界にはいつもいつも問題ばかり起こるのかしら」としかめっ面をしている。

少し離れてその世界を見る。
つくづく、自分を成長させるには、変えていくには、多少の新しい人間関係が必要だと思い知る。
新しい人間関係で得られるものは新しい、自分のまだ知らなかった価値観だ。
だから、読書や映画や芸術や、そういうものも、自分のものではない価値観で生み出されているので、人間関係から受け取るものよりはマイルドかもしれないけれど、受け手の態度によって価値観の変化を起こすことができると思う。

狭い世界を守って生きているその人たちは、本にも、映画にも、音楽にも、芸術にも、体験にも、興味を示さない。
何かいつも必死に早口に、色々な問題を抱えて考えているように話しているけれど、その解決策を求めて専門の窓口に相談したり、書籍を読んだり、第三者に間に入ってもらったりしない。
多分本当は答えを求めていない。
自分の安心できる世界以外の価値観で物事が語られ始めるのが怖いのだ。

ここまで偉そうに書いてきたけど、これはまんま私にも当てはまる。
私はある人間関係を外から見てこう思っているが、自分だって、もっと広い世界や価値観を知っている人からすれば同じである。
ただ私は、自分が狭い価値観や人間関係の中でその安心を守りたがって外を怖がっているのを知っている。またそのまま歳を重ねていくことに恐怖を感じる。
そして同時に、自分の大事な相手に対しても、そのような人間関係や価値観に広がりのない世界だけになってしまうことが怖いと思う。
大切な人だからこそ、「私とあなた」だけの価値観で世界を見てしまうのではないかというのが怖い。
大切な人だからこそ、「心を一つに」なんてせずに、お互いいろんな目線で、いろんな方向を向いていたい。
「同じことを役者を変えて繰り返す」のではなく、「私はわたし、あなたはあなたのまま、どれだけ多彩なゲストを迎え、どれだけ多彩な物語を楽しめるのか」を意識してやっていけたらいいなと思う。

貧弱なラインを愛する

体の線のことである。

私は20代後半から30代前半まで、とても太っていた。
これではいけないと思っていた矢先に、旦那さんが糖尿病であることがわかり、一緒に本格的に糖質制限を始めた。
体重は順調に減り、数年をかけて、先日、標準になった。
糖質制限はあくまで「適正体重」になる術だ。
痩せすぎの人は太く、太った人は痩せることができる、正しく行えば。
だから、自分の適正体重以上に増えることも減ることもない。

だから私は決して痩せてガリガリになったというわけではなく、むしろ太ももは長年の姿勢の歪みにより硬く太い肉がついたままだし、掃除や家事をめったにせず子供を抱き上げることもない二の腕はだらしなくぶよぶよしたままだ。

全体的にぽったりしているにもかかわらず、私は自分の体、特に背中・おなか・お尻のラインにどうしようもなく「貧弱」なイメージを持つ。

おそらく、筋肉が少なくなってしまったからだと思う。
もともと私は典型的な日本人女性の体型、着物が似合う体型、すなわち小胸・鳩胸で腰とお尻の位置が低くでっぱりがない。
それが、糖質制限で健康的に痩せてきていたときは気が付かなかったのだが、ここ数か月のストレスであまりよくない痩せ方をして、筋肉がなくなって、より顕著になった。
のっぺりに拍車がかかってしまった。

それが、最近結構いとおしい。
お腹にはまだまだ脂肪がついているのに、横から見ると(二の腕との対比も相まって)そうとう薄っぺらい。
胸の高さも低いし、お尻のカーブも緩く下向き。
老いも手伝って、なんともわびしく、貧弱だ。
でもそのなんとも平坦なラインをとても「いいな」と思う。

なんでかはわからない。
お世辞にもイキイキしているとは言えないし美しくはない。
でもいとおしい。

そういえば最強にメンタルやられていた時の自分の顔がすごくいいと感じたときもあった。
確かツイッターでもそういったことをつぶやいた。
会社のトイレの鏡にうつった自分の目の生気の無さよ。
眉毛がぼやっとしていて目の下にクマができていて、ビューラーをやめたのでまつげは下向き。
もともと私のすべてのパーツは、小さく丸い。
アイラインもビューラーも使わず、口紅も引かない私の顔はもう本当にすべてのパーツが小さい。
それでもなんだか、いいなと思った。

自分を憐れんでいるのだろう。
気持ち悪い感情だと思う。
だけどくたびれたこのラインを、好きだと思った。

私は背が小さい年配の方の着物姿が好きだ。
さらに、着物からのぞく首筋や足首や手首がやせ細っている人の着物姿が好きだ。
体のラインに反して、とてつもないパワーを感じる。静かなパワー。
醸し出す大物感?とにかくこの小さなご婦人には今まで積み重ねてきた様々な物語や感情があるのかもしれないと、私に思わせる。
それにあこがれていたのかもしれない。
今の私の細くはないけど貧弱なラインが、小さい着物のご婦人に少しでも近くなったかもしれないと想像して、うれしいのかもしれない。
でもそれはあくまで外側のラインののっぺりしているさまがなんか似ている、というだけで、本質的には全然違うのだろう。
気力がないのを受け入れている。
精神が浮上しないのを許している。
何かに打ち込みたいけど打ち込めるものが自分には何もない。
それは私の状態が0以下になっているからかもしれないし、ずっとそういう性質なのかもしれない。
とにかく今は自分ののっぺりとした貧弱な印象が好きだ。
いつかその感情が全く理解できなくなった未来の自分が、この文章を読むのを想像するとなんだか面白い。
逆に、このままのっぺりと歳を重ねた後の自分がこの文章を読んでいるのを想像しても、なんだか薄気味悪くて面白い。 未来のことはなんにもわからない。
その時自分が何を愛しているかなんてわからない。