いっぽいっぽ日記

いっぽいっぽ日記

日々シンプルに心地よく過ごすために、やってみたこと、思ったこと。

「祝われること」への拒否反応

平々凡々、低空飛行だけど極端な落ち込みもない日々を送っています。
その中に突然起きた出来事と、激しい感情の乱れに自分でびっくりしたことがあったので記録します。

きっかけは、友人からの宅配便でした。
なんだろうと思って開けてみると、
「10周年おめでとう 大好き」
という文字とともに、友人たちからの、私たち夫婦の結婚10周年を祝う様々なプレゼントが詰め込まれていました。

ペアのグラス、お花、手作りの似顔絵入り新聞、お祝いメッセージを録音した、似顔絵入りのフォトスタンド…

頭が真っ白になった

私なんかのためにここまで。
なんて優しくて清くて聖くて暖かいひとたちなんだろう。
こんな時、皆さんはどういった反応をされますか?感動の涙、いっぱいの笑顔、驚き…
普通はそういった場面を想像します。

私が最初に感じたのは、「恐怖」でした。
最低だと思いました、でもまぎれもなく怖くなってしまったんです。

うれしい、たのしい、感動した、そういうものを一切飛び越えて、ここ数年感じたことのない「怖さ」を感じました。
同時に、自分でも想像していなかった自分の反応にひどく嫌悪感を覚えました。

「恐怖」の原因は、「祝われること」に慣れていないから?

私はなぜ、祝福されたのに「怖い」と感じてしまったのでしょうか。
家事が手につかなくなり、家の中をおろおろする私。落ち着け、落ち着け。なんで、「おめでとう!」の反応が「狼狽」になってしまうんだ…
心臓がどきどきしています。混乱する頭の中で、きちんと自分の心に向き合わなければと感じました。

何とか落ち着き、友人に電話でお礼を伝え、ご飯を作ってテレビを見てお風呂に入りながら、なぜこんな気持ちになってしまうのか考えていました。
・私のような者が、こんなに祝われていいのだろうか
・みんなにお金も時間も使わせてしまい申し訳ない
・そもそも私は祝われるような生き方をしていない
・このところ祝われるべき事柄が何も起きていない
・人付き合いに嫌気がさしていて、人間不信みたいになっている

こんなことが頭に浮かびました。
よくないとわかっていてもそう思ってしまいました。

おそらく、私は長らく「祝われる」立場になかったことで、それを受け取ることに慣れておらず、戸惑う気持ちが「怖い」になって表れたのかと思います。
私は結婚式をしていないので、いわゆる「大々的な祝福の場」に立ったことがありません。
義理の両親の介護、パートナーの病気と仕事の浮き沈み、仕事では「こなして当たり前」の毎日。
私たち世代の「慶事」といえば一般的に「出産」「昇進(仕事の成功)」などが思い浮かびますが、私はどちらも経験していないので、日常に「祝」があまりないのです。
友人と話してても、「大変ね」「頑張ってるね」はあるけど「おめでとう」はなかったな…

そもそも「祝われ慣れる」とは?

私は今回のように圧倒的な祝福とは縁遠い生活をしているけれど、それでも幸せだと思っています。
でも…今回の自分の心の動きを見て、日々の生活を心から楽しんでいるとは言えないのかなと気づきました。
自分の心を無視して、それでも「幸せだ」と思いこんでいるところがあったから、そんな自信のない自分の生活に突然「祝」が入ってきても、純粋に喜べないのではないか。
まず自分が自分のことを心の底から「幸せだ」と思っていたら、きっと祝福も素直に喜べるのではないか。
「祝われ慣れる」とはつまり、日々の自己肯定感が高く、「自分はここで生きていていいんだ、祝福されるべき命なのだ」ということを本当に感じている状態なのではないかと思います。
「私は幸せだ」と感じることはあります。それは本当です。ただ、「私は大切だ」と感じていたかと言えば、正直この出来事があるまで頭の片隅にもありませんでした。
「私は大切だ」=「私は幸せだ」となるはずなのですが、なんでなのか。
「私は幸せだ」と感じていた気持ちは何なのか。私は私にうそをついているのか。

混乱し、気分が落ち込むのでこの辺で書くのをやめますが、なんにせよ、とても考えさせられる出来事でした。


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