(今回は、自分のキャラクターイラストでは辛すぎたので、犬さんに協力してもらいました(^^))
ずっと、痛みにできるだけ寄り添うことが、私にできる最大限だと思っていました。
でも、本当に必要だったのは、大切な人を守る盾となること、
大切な人の苦痛の原因を取り去る武器になることだったんです。
ドラクエでも、延々ホイミをかけて、受けた傷をいやし続けても、戦闘は終わらない。
大事なのはどんな攻撃からも身を守る盾を持っていることと、戦いを終わらせるために武器を持って立ち向かうこと。
そんなの戦闘の基本だって、さんざんゲームでやってたじゃない。
どうしてこんな簡単なことに今まで気づかなかったのか、本当に自分に失望しました。
思い出したのは、小学生のころ、(今思えば大したことないのですが)部活動で上級生から意地悪されたときのこと。
生まれて初めて、おうちで悲しくて泣きました。
それまで、私はあまり学校の嫌なことを両親に話すことがなかったのですが、
この時は、悲しさを押さえることができず、母親に泣きながら話してしまいました。
返ってきた言葉は、「いつか終わるから、我慢しなさい」でした。
もちろん、こんな小さなことが私のこの気の利かなさ・受け身体制の根源だなんて思いません。
でも、きっと今までのこうした小さな日々の出来事や選択が積み重なって、少しずつ少しずつ、「我慢しかできない」「我慢すれば丸く収まる」「前に出る、主張する方がおかしい」「言わない方が得」「もめたくない」みたいな、ひっこめひっこめな考え方になっていったのかなあと思います。
だから、大切な人が苦しんでいるとき、私は本当に、「寄り添う事こそ至高」だと信じて疑っていませんでした。
「ねえ、もし自分の子供がいじめられたら、どうするの?一切表にたたないつもり?」
ほんとだ。
寄り添うとか、それ、全然意味ないし。
子供守れないやん。解決しないやん。
わたし、あのときそうしてほしかったんじゃん…
ブログを始めるまで昔から何度も、旦那さんと度々、こういう極限状態の話し合いになっていました。そのたびに、「そっか、私が悪いんだ」とはわかるものの(他の人や旦那さんから見たら「どうしてこんな簡単なこと」と思われるだろうけど)、どうしても改善することができませんでした。
ブログを始めてから、前回までなら「私が悪い、なおそう」でいつも締めくくっていた自分の気持ちを、もっともっと深く、探ることが多くなりました。
また、いままで私が委縮して、というか自分の考えていることが自分でもわからなくなって何も言えなくなることが多かったのですが、このところは、旦那さんにもそういう、旦那さんが理解できないような現象が私に起こっていることを伝えられるようになり、旦那さんの方もかなり寄り添ってくれていて、本人うつ病なのに、逆にめっちゃ気を使わせて申し訳ないやらありがたいやら。
なんだか、数週間寝かせてもやっぱりうまく文章にできませんでした。
ヘンなまとまりのない感じになってしまって(いつものことですが)すみません。
でも、今回すごい落ち込んで、私の中では、前とは違う感触や手ごたえがあり、今まで本当になんだったんだと思いつつ、でもすぐには変われなく、反省し落ち込み、でもでも少しづつ行動に変化があることに気付いてちょっと明るくなったり安心したり、そうやってこのところ過ごしています。
自分に目を向ける訓練です。
人は、結局自分にしていた仕打ちを、人にしてしまうと思います。
大切な人を守りたいので、私は強くなりたい。
そのためには私自身にも嘘をつかず、無視せず、私を大切にするようにしたいです。
タイムリーに、私の思っていることを代弁するかのような、非常に心打たれたエントリがありますので、リンクを記載しておきますね。(id:kunipi)さん、いつも心にささる「痛い」記事、楽しみに拝見しています(マゾか)。「痛い」理由は、今回の記事の通りです。
では、このへんで。