こんにちは、やまたろうです。
最近あらためて考えたことです。
やさしさは、めぐるということ。
ツイッターでの交流で、「旦那さんと一緒になってよかったと感じるときは?」ということを考える機会がありました。
これに対しての私の考えは、
- 価値観がぴったりあったとき
- (旦那さんが)私以外の誰かに対してやさしかったとき
1つ目の、「価値観が合う」ことは、ほんとに「ありがたいなあ」と思うのです。
もちろん、二人は同一人物ではないので、完全に価値観が一致しているわけではありません。
性格だって旦那さんと私は全然違います。
でも、根っこの部分の価値観が一致していることを確認できたとき、なんとも生きやすいというか、
楽になれるんですよね。
わたしはそれは大変奇跡的なことだと思うので、「ありがたい」と感じます。
で、今回の話のメインとなるのは2つ目なんですけど。
「(旦那さんが)私以外の誰かに対してやさしかったとき」
この考えに気づいたとき、なんだか自分でも不思議で。
私は何でこんなこと思うんだろ?ってもう少し考えてみたくなりました。
誰かが誰かにやさしくしているのを見るのが好き
わたしはもともと「怒る」のを見るのが大嫌いです。
好きな人なんていないでしょうけど。
逆に、やさしい場面を見るのは好き。
これもみんなそうでしょうけど。
そう感じない人もいる?まあそれは最後に考えてみるとします。
その誰かと誰かに心の距離があるほど、やさしさにあたたかさを感じる
これ、やさしさの現場に人との距離があればあるほど、見ていて気持ちがあたたかくなりませんか?
例えば、転んだ子をお母さんが抱き起して土を払ってあげている場面は、ほほえましいですね。
その「転んだ子」と「お母さん」の心の距離はとても近い。
それがたとえば「転んだ子」と「通行人のおじさん」だったら?
「転んだ子」と「通行人の同じ年くらいの子」だったら?
「転んだ子」と「通行人のヤンキー」だったら?
「転んだ通行人のおじさん」と「通行人のヤンキー」だったら?
例えがアレかもしれませんが、一見、心の距離の遠そうな人たちの間で行われるやさしい行為は、
わたし大好物です。
最近観たリオオリンピックであったことだと、何かの陸上競技で転倒した違う国の選手同士が支えあって走っている場面もそうだと思います。
やさしくした側の人が私の大事な人だと、さらにうれしい
しつこく上記の例をひっぱると、「転んだ通行人のおじさん」を助け起こした「ヤンキー」が「自分の兄弟・彼氏」だったら?
想像したらめっちゃ幸せになりません?わたしだけかしら?
自分の大事な人が、だれかにやさしくするのを見るのって、とてもうれしくなりますよ。
やさしさは、めぐる
やさしさを受けたらもちろん、やさしい行為をみると気持ちが穏やかになります。
穏やかな気持ちでいると、まわりの人に対して穏やかな態度で接することができます。
気持ちが穏やかだと、心痛めるひとによりそったり、力を貸したり、一緒に悩んだりできます。
アンパンマンの顔のように、自分の一部を使ってその人のために何かをしようと思えます。
顔を受け取った人、やさしさを受け取った人は、心が穏やかになります。
心が穏やかになったその人は、自分が穏やかでいることで、顔をくれた相手はもちろん、そばで見ていた誰かをほっとさせるかもしれません。
やさしさを受け取った人が、心が穏やかになり、また別の誰かにやさしさを配るかもしれない。
やさしさは、めぐる、という考え。
そんなやさしさがめぐる世界を想像できるから、私は旦那さんが私以外の誰かに対してやさしかったとき、一緒にいてよかったなと感じるのだと思います。
そして、旦那さんがいつまでもそんな旦那さんでいるように、わたしは旦那さんに、少しでもやさしさを手渡そうと思うのです。
…うん、時々忘れがちになるけど、こころがけよっとw
やさしさは、広義の「ギブアンドテイク」でとらえる
ギブアンドテイク というと、
あの人がやさしくしてくれたから、私もその人にやさしくする
という、主に1対1のサイクルです。
でもこれだと、そうじゃないとき、例えば
あの人にやさしくしたのに、あの人は私にやさしくない
といったとき、もやもやした気持ちになります。テイクしたのにギブがないから。
また、
あの人にやさしくされたわけではないから、こちらからもやさしくする必要がない
という考え方にもなってしまう。
やさしさを1対1でとらえると、とたんに窮屈になってしまう…
やさしさを始めるきっかけが極端に狭くなると思います。
でも、やさしさが、めぐるとすれば。
自分のやさしさが、配った相手とは別の相手から、巡り巡って帰ってくる。
1対1ではなく、10人100人と輪になっているイメージで、
どんどんやさしさのリレーが行われて、やがて自分がやさしさを受け取るとすれば。
ひろーい範囲での「ギブアンドテイク」が成立します。
この考えで生活すると、わたしはなんだかずいぶん楽になります。
実際は、そんなに簡単な話ではないと思います。
でも、想像すると楽になれるから、わたしはそれでいいんです。
やさしさを見てもつらくなるとき、まずやさしさを配ってみてはどうだろう
近しい人が誰かにやさしくしているのを、素直に「いいな」と思えないときもあると思います。
「他人にはやさしいのに、私にはずいぶん冷たいのね」
そんなときもあるでしょう。
わたしも正直、自分がすさんでいるときやつらいときに、近しい人が自分以外にやさしくするのをニコニコ見守る自信がありません。
だから、自分に向けて書くんですけど、
「やさしさを見てもつらくなるとき、まずやさしさを配ってみてはどうだろう」
わたしはわたしにそうアドバイスすることにします。
やさしさがめぐるとすれば。
わたしの配ったやさしさは、巡り巡ってわたしをやさしい世界へ連れて行ってくれるかもしれない。
だから、今はつらくて、やさしさに飢えているけど、自分から少しだけ、やさしいことをやってみよう。
そうそう、まずはわたしという体に、あたたかくておいしい栄養を注ごう。
わたしがわたしに、やさしさをおすそわけ。
会社に行ったら、元気に挨拶しよう。あの人の今日の服素敵だな。似合ってるって伝えてみよう。
電話口でお客さんが困ってる。わたしにできることはなくても、せめてじっくり話を聞こう。
今日も一日疲れたな。自分の問題は解決していないけど、とりあえず旦那さんも今日一日がんばったんだから、「お疲れさま」って言っとくか。
そんなにうまく切り替えられないかもしれないけれど、
わたしが本当につらく苦しくなったとき、
わたしがどうして「旦那さんが私以外の誰かに対してやさしかったとき、一緒にいてよかったといい気持ちになるのか」を思い出して、
この記事を思い出して、
どうか私の心が楽になりますように。