極端に狭い人間関係で生きている人がいる。
自分とは絶対に離れないだろうと思い込んでいるその人間関係の中で、
何十年たっても同じことを繰り返す。
その人間関係の中では、物事の考え方や価値観や関係性が変わらないので、
一見別の出来事が起こったように見えても、結局は過去の配役を変えて同じ問題を作り出しているように見える。
また、その人間関係の中に「異物」が入り込むのを極端に嫌う。
自分が隅々まで把握していて手足のように動かせると思っている将棋盤の上に、チェスのコマが置かれようとするのを必死に排除しようとする。ここには将棋以外のルールは必要ないのよ、一般的には(ここでいう一般的に、も、その狭い世界で語られているものだ)そういうものだから、何かを足す必要はないの。また何かが抜ける必要もないの。このままがいちばんうまくいくのよ。って。
いつまでもいつまでも。
同じキャストを使って、その時々で悪役を立てて、常に不安と不満のドラマを作っている、そしてドラマを作っている本人こそ本気で「なぜこの世界にはいつもいつも問題ばかり起こるのかしら」としかめっ面をしている。
少し離れてその世界を見る。
つくづく、自分を成長させるには、変えていくには、多少の新しい人間関係が必要だと思い知る。
新しい人間関係で得られるものは新しい、自分のまだ知らなかった価値観だ。
だから、読書や映画や芸術や、そういうものも、自分のものではない価値観で生み出されているので、人間関係から受け取るものよりはマイルドかもしれないけれど、受け手の態度によって価値観の変化を起こすことができると思う。
狭い世界を守って生きているその人たちは、本にも、映画にも、音楽にも、芸術にも、体験にも、興味を示さない。
何かいつも必死に早口に、色々な問題を抱えて考えているように話しているけれど、その解決策を求めて専門の窓口に相談したり、書籍を読んだり、第三者に間に入ってもらったりしない。
多分本当は答えを求めていない。
自分の安心できる世界以外の価値観で物事が語られ始めるのが怖いのだ。
ここまで偉そうに書いてきたけど、これはまんま私にも当てはまる。
私はある人間関係を外から見てこう思っているが、自分だって、もっと広い世界や価値観を知っている人からすれば同じである。
ただ私は、自分が狭い価値観や人間関係の中でその安心を守りたがって外を怖がっているのを知っている。またそのまま歳を重ねていくことに恐怖を感じる。
そして同時に、自分の大事な相手に対しても、そのような人間関係や価値観に広がりのない世界だけになってしまうことが怖いと思う。
大切な人だからこそ、「私とあなた」だけの価値観で世界を見てしまうのではないかというのが怖い。
大切な人だからこそ、「心を一つに」なんてせずに、お互いいろんな目線で、いろんな方向を向いていたい。
「同じことを役者を変えて繰り返す」のではなく、「私はわたし、あなたはあなたのまま、どれだけ多彩なゲストを迎え、どれだけ多彩な物語を楽しめるのか」を意識してやっていけたらいいなと思う。