いっぽいっぽ日記

いっぽいっぽ日記

日々シンプルに心地よく過ごすために、やってみたこと、思ったこと。

完璧を目指すのはもうやめた

最近はどんな小さなことでも手帳に書くし、ブログも更新します。
もう、どんなに無益でもいいんです。
完ぺきを目指すのはもうやめました。

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何をやるにもしり込みする性格でした。
自分は積極性や自発性、継続性がないんだと思っていました。
ずぼらでめんどくさがり屋で、もともとはそれをどうにかしたくて始めたブログでした。

あるとき、何事にも踏み出そうとしないのは「完ぺき主義」だからということに気づきました。目から鱗でした。

私は、ある目的のために逆算して計画を立てて、ということができない、苦手である、と認めます。
完ぺき主義だから途方もない計画を立てて、これまた完ぺき主義だから、その無謀な計画は1度も達成されることなく途中で消えていきました。

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完ぺき主義だと認めると、過去のあれやこれや、全部の後悔や失敗がそれに起因することが身にしみてわかりました。
私は自分のことをちっともわかっていなかったんだと思います。

なんでも頭の中で考えるだけで実行に移せないのは、「完ぺきにはじめ、完ぺきに終わらないといけない」という思い込みのせい。
自分で考えることを放棄してあきらめることがうまくなったのは、完ぺきに解決できる方法を探し続けたせい(そんなものはない)。
ちょっと試しては3日で飽きて、「自分には合わなかった」と習慣にしないのは、「毎日完ぺきにそのタスクをこなさないと」「こんな初歩でつまずいてはこの先真っ暗だ」と、決めつけていたせい。

「まちがってはいけない」は強い強いすりこみで、まだまだその思い込みをしているし、気づいたら「完ぺき主義」のセメントで体を固めていることもあるけれど、小さなノミでも使って、少しずつ壊していきます。
これから何十年もかけて体力も気力も精神力も衰えていくでしょうし、今までの完ぺき主義な思考だと、本当に何もできなくなってしまう。
歳をとるならとることを活かして、色々なものから自由になりたい。そのためには完ぺきであることを求めない方がいい。

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今年の私の目標は「ととのえる」。整える=完ぺきにしなきゃいけないようなニュアンスもあります。
しかし、「整う」の意味を調べると、

ととの‐う ととのふ 【整う・調う】 《五自》めざす状態に全体がよくまとまる。 乱れずきちんとそろう。調和がとれる。「隊形が―」「―・った文章」「―・った顔立ち」。不足なく備えができる。  「準備が―」 約束事がぐあいよくまとまる。  「縁談が―」

ということでした。 「目指す状態に全体がよくまとまる」「ぐあいよくまとまる」。
細部を追わず、全体として「ぐあいよく」なっていればよし、という感じ?
なるほど、完ぺきは求められていない。
「ととのえる」ためには全体を俯瞰し自分の調和がとれていることが大切だと感じました。

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完ぺきではなくても、私という人間の調和がとれていれば、それでいいかと。
私がぐあいよくまとまるためには、1つ1つに完ぺきを目指さず、いろんな出来事をたたいたり壊したり均したり埋めたり削ったりしながら、ゆっくり転がるように形が整っていくのを、忘れないでいることが大切かもしれないです。

手帳(バレットジャーナル)のキラキラしたインスタやYouTubeをみても、マネしない。
私の目的は記録をデコレーションして作品にすることではない。
私の生活をととのえるため。

おいしそうな料理や簡単そうなレシピがつぎつぎ生まれているけれど、全部は試さない。
1回きりの華やかさや手軽さより、毎日の献立や調理が楽になる定番化を。

ダイエット、○か月でマイナス○キロ達成!!という報告あふれるSNS、ちょっと、いやだいぶうらやましいけど、今できることから少しずつ。
1日の激しい運動や筋トレより、軽めでもいいから毎日できる運動習慣。劇的な変化より、成果がすぐ見えなくてもあせらない。

そして最後に、「完ぺきを目指すことをやめる」という完ぺきな思考も、目指さない(禅問答?)。
完ぺきを目指そうとする自分自身もしっかり観察して、徐々にその思考を削り取っていけばよし。

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完ぺきを目指すのはもうやめました。