いっぽいっぽ日記

いっぽいっぽ日記

日々シンプルに心地よく過ごすために、やってみたこと、思ったこと。

あきらめ癖をなくしたい、でもめんどくさいという葛藤

多分ですよ。
あきらめない方が、人生楽しいし、道も開けるし、生活もよくなると思うんです。
頭では、思うんです。
あこがれるんです。

でも、どうしても「めんどくさい」が昔からの本音です。
恥ずかしいですが、「自分がわからないよ~~~」といっている私の唯一の確固たる信念、行動原理、
それは「めんどくさい」です。胸張って言えます…。

最近は、「あきらめる」に関しては、いいとか悪いとかでいうと、なんかニュートラルな位置に来たなあって思います。
ひとむかし前の「あきらめる=悪」という印象は濃くはないと思います。
でも、なんだろう、「ポジティブな動機であきらめる」ことは市民権を得ているけど、
「めんどくさいからあきらめる」って、全然ダメじゃん、という空気をひしひし感じる。
し、自分は、「ポジティブにあきらめる」フリして「本当は、めんどくさいからあきらめている」を隠して隠して生きてきた気がします。

なぜ、こんなに「めんどくさい」と思うのかわかりません。
性格だ、で済む話かも。
それにしても私の「めんどくさい」という行動指針は常軌を逸している気がしてなりません…
自分がわからないで今結局苦しんでいるのも、「自分の本当の声を聴くのがめんどくさくてあきらめた」からなのかと思っています。
人によるんでしょうけど、私にとっては、自分の感情を考えることが本当にめんどくさかったのです。

なんでそんな大事なことまで「めんどくさい」と思うようになったのか、本当のところはわかりません。
後付けで自分以外を原因とするならば、おそらく、小さいころにたくさんの「あきらめる」を経験したので、
なんかもう色々変えようとすること、挑戦すること、自分のやりたいことを続けること、とうとう自分自身の本当の感情を感じることすら、「めんどくさい」って思うようになったのかな、と思います。
あきらめる→めんどくさくなる→あきらめる→めんどくさくなる…のループ。
すぐあきらめちゃう。「聞き分けのいい子」でした。

あきらめる、と、めんどくさい、って、自分にとってもう剥がすことのできない鎖なのかなと思います。
鎖っていうとあたかも誰かにぐるぐる巻きにされたような、他人のせいみたいな言葉ですけど。
もし最初がそうであったとしても、その生き方を選び続けたのは自分の責任なのだと思います。
たいていのことは、あきらめると楽なんですよね、正直。

どうしたらいいんだろう。
考えがまとまりません。
「めんどくさい」がなくなる方法、みたいな本を読んだこともあります。
習慣を変えたり家電を買ったりして、できるようになったこともあります。
でも、「めんどくさい」という感情がなくなったわけではないです。
そもそも、自分が本当にやりたいと心から思っていることって、「めんどくさい」より先にきますよね?
そういうものなんですよね?
自分は「本当にやりたいことを考えることすらめんどくさい」と(認めたくないですが)思っているのでしょう。
だからいつまでたっても「自分がわからない~」なんて言ってるんだと思います。

もういい加減自分のことをちゃんと見てあげたいからあきらめたくはないんだけど、癖で、パっと思ったことに無意識に何重にも蓋をかぶせてすぐ隠しちゃうんですよね。
自分からも隠しちゃう。
それを1枚1枚剥ぐのがめんどくさくて、もういいや、あきらめようってなってしまう。
ダメだって頭ではわかっていても、長年の癖はなかなか抜けません。
たいていの重要でないことはあきらめていいと思うんですけど、大事な部分は大事にしたいです。でも...という葛藤。

いっそのこと、「私は自分のやりたいことが手に取るようにわかります!」という人と脳を取り換える体験ができればいいのに(どこまでも他人任せ)。
そもそも私の「自分の感情は自分なんだから当然わかるはずだ」というのも思い込みなのでしょうか?
それに「自分のやりたいことはハッキリわかるはずだし絶対あるはずだ」というのも極端な思い込みかも?
色々頭で考えだすとこんがらがってきます。
「考えるな感じろ」がいかに難しいことか。
いやいやそれも、私は割と「これやりたい」とライトに手を付けることもあるし…そうすると案外その時の感情には素直になっているので、それでいいのか…?
ほらほら、どんどんややこしや~ややこしや~~~~。
私自体がめんどくさい存在だな(笑)まとまらないので今日はこの辺で。